ケータイ小説を思い出す: 渡辺淳一「愛ふたたび」を読了しました
2013.09.11
渡辺淳一「愛ふたたび」を読了致しました。
出版社の紹介は以下のようになっています。
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人生最高の恋。
妻を亡くした70代の医師。
40代半ばまで伴侶に巡り合えなかった女性弁護士。
性的不能となった男は、いかにして女を愛したのか?
それは、すべてを諦めて、余生を静かに送れという神のお告げなのか……。
愛妻の死を契機に、第二の人生を楽しむ決心をした整形外科医の「気楽堂」こと、国分隆一郎、73歳。突然襲われた、回復しようのない性的不能――。絶望と孤独のどん底に突き落とされた彼の前に、亡き妻の面影をしのばせる女性が患者として現れる。
恋愛観、人生観が一変する 渡辺文学の到達点。
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アマゾンの書評を見ると、1つ星が最も多く、次が2つ星とかなり評判は悪いようです。
ストーリーがいい加減すぎる、つまらない、考えがひとりよがり・・・
その通り!と思いつつ、でも私は、大変おもしろく、かつ意義深い本だと感じました。
一般的に「純文学」と言われるような範疇からは外れた作品です。
例えば必然性のあるストーリーや、リアリティのある登場人物。心象風景を適切かつ美しく表現する文章。
そういったものは、控えめにいって壊滅的にありません。
簡単に言えばご都合主義のぺらっぺらの、主人公が妄想したことが次のページで展開する酷いストーリーです。
しかも、高齢の医師の一人称で語られるわけですが、その言ってることが行ったり来たりで、少し前で言ってたことをすぐ打ち消したり、かと思えば意味なく念押ししたり、という文章が延々と続きます。「何より彼女が自分に満足していることが嬉しい」→1ページ後「彼女は本当に自分が大切なのだろうか?」→1ページ後「とにかく、彼女が満足してくれていることだけは正直いって、間違いない」みたいな感じです。
と思うと、Wikipediaで筆者自身が調べたことをそのまま載せているだろうという内容が延々と続いたりもします。
一般的な評価なら、これは駄目だ、筆者もいよいよ年をとって質が落ちてきたのだ、以上。
が、それで終わりにしてはこの本はもったいないのではないか。
ご都合主義ストーリーですが、実は我々の周りにはご都合主義で人気の作品はいろいろなところにあります。
例えば島耕作。釣りバカ日誌。水戸黄門。ドラえもんだってそうです。読んでる本人が感情移入して読んで、そんなことあったらいいな、と思って読むだけで楽しくなる。それはひとつの完成された文学のあるべき姿であるとすら思います。感情移入できない人からすると、怒りをすら覚えるような内容だったりもするものです。
客観的にそれも含めて楽しんで読めば、おおらかな、めでたい気持ちにすらなれます。
文体は、知的さを感じさせるものではありませんが、逆にひとりの男の悶々とした心理描写としては、的確で正確ではないか。
冷静に振り返ると自分もこんなものです。むしろ良いとされている小説は、ちょっと格好つけすぎなのではないかとすら感じてきます。
一時期流行したケータイ小説との対比で読むと現代文学的な発見があるかもしれません。
思考をそのまま文章に落としこんでいるような。
アタシ
とにかく、
彼女が
満足してくれていることだけは
正直いって、
間違いない
悪くないですね。
そしてこのストーリーを通して筆者の主張する、恋愛に関する考えです。
これをそのまま肯定することの是非は別として、年をとるということを単なる機能の衰えの積み重ねと理解し、今までと変わらず前向きに生きようとする、
そのメッセージは非常に真実味があり温かいものではないかと感じました。
すでに高齢者と自覚する方だけでなく、これから高齢者になろうとするすべての方にとって、なんらか持ち帰るもののある小説です。
*ただしあまりのご都合主義的展開に、不愉快で読むのが難しい女性はいらっしゃるかもしれません。