成長という名の呪い

2021.11.07

成長という名の呪い
現代に生きる私たちは、「成長し続けなければならない」という圧力を陰に日向に受けており、それが多くの人にとっての生きづらさにつながっていると考えています。一般的には、成長することは素晴らしいことであり、前向きで楽しいことなはずなのに、どうして成長することが苦痛になってしまっているのでしょうか。今日は、なぜ成長することが苦痛になるのか、またそれを克服するにはどうすればよいのか、考えてみたいと思います。
 

現在は成長の時代

成長。現代社会において、私たちは成長することを求められます。また、成長し続けることも求められています。グローバル社会の中で一定程度、フェアな競争環境が実現し、競争力を常に高めなければ、それまでと同じ経済価値が提供できず、収入や社会的地位を維持できない。また時代の変化の速度が速まる中で、次から次へと新しい技術とビジネスが生まれ、常に新しいことを学ばなければ市場価値を失ってしまう。
 
LIFE SHIFTなどで語られているように、人生70年と考えられていた時代には、大学までに受けた教育をベースにして、その後の社会人生活を過ごせばよいものでした。ところが人生100年時代となり、相対的に働く期間が長くなることによって、一回学んだことだけでその後の人生すべてに活用し続けることが難しい時代になっています。
 
よい悪いではなく、そのような時代、すなわち成長し続けなければならない時代に、今私たちは生きていると言えるでしょう。
 
ここで言われている成長というのは、単に目の前の仕事を一生懸命することで得られる経験や実践知に基づくものだけではありません。それに加えて未知の領域の学習をし、ネットワークを広げ、抽象的・論理的な理解を多方面に広げる必要があります。そのうえで、目の前の仕事も一種類だけでなく、複数行ったり、マネジメントとしての教育を受ける必要もあります。頑張って仕事をするだけでなく、自分で時間を作り、目の前の仕事には直接結びつかないことを学ばなければなりません。言われたことをやるのではなく、自らゴールを決め、自律的に勉強する時間を作り、努力しなければなりません。
 
いかがでしょうか?皆様の親御さんが、そうした圧力にさらされていたかというと、そうでなかった、という方が大部分ではないでしょうか。そして、自分が今、そういう圧力にさらされていると感じている方は、とても多いのではないでしょうか。
 

成長が求められる社会は今までなかった

 
少し視点を広くして考えると、世の中の大部分の人が一生学び続け、成長し続けなければならない時代というのは今までありませんでした。例えば狩猟採集時代。成人するまでに村落共同体の中で、少年たちは狩りの仕方を学び、少女たちは食事と家事の仕方を学びます。成人後は、大人として、何かを学んだり成長するために意図的に時間をとることはありません。もちろん日々の暮らしの中で経験を積み成長することはありますが、それに対して自覚的になることはおそらくなかったでしょう。
 
野生動物が、日々の暮らしの中で成長しようとしているわけではないように、です。
 
基本的にこの構造は、農耕が普及しても変わりませんでしたし、工業社会となっても、ある職業につくための事前の教育や弟子入りはあっても、持続的な成長を求められることはそれほど多くなかったと考えてよいと思います。
 
もちろん、一部の支配者層や聖職者、学者は常に学び続けていましたし、それを成長と表現することも可能でしょう。ただ、それはごく一部にとどまりますし、「成長」という概念を当時の人が持っていたかというと、疑問です。少なくとも今のような抽象的な成長ではなく、個別具体的な、すべきことに必要な技能を習熟するものにとどまっていたのではないかと思います。
 
成長という概念を広めにとっても、せいぜい、第二次世界大戦後、80年間程度しか、人類は成長することに対して自覚的になる必要のない生活を送っていたと言えるのではないでしょうか。
さらに言えば、先ほど述べたように、日々の暮らしに必要と思われない状況で自律的に成長し続けることが求められるようになったのは、実はせいぜい10年、20年のことなのではないでしょうか。
 

高度成長期の成長とは

高度成長期の成長とは
 
皆様の親御さんが、と書きましたが、具体的に高度成長期の日本を考えてみましょう。高度成長期。成長という言葉が入っていますが、この成長と、ここで議論されている成長は対象が大きく異なります。高度成長期に成長していたのは、経済であり、消費でした。翻って、今求められているのは個人の成長です。もちろん高度成長期のサラリーマンは、猛烈に働いていました。おそらく労働時間でも、上からのプレッシャーという意味でも、今より厳しい職場が多数だったろうと思います。それでも、成長という観点で、自ら学習するテーマを見つけ、休日に勉強したり、読書したりということが社会的に求められるような時代ではなかったと言えます。
 
現在に生きる私たちは、企業のホワイト化が進み、労働時間に自分の時間の大部分をとられることは減りつつあるとはいえるかもしれません。しかしそのかわり、余暇としてできた時間の中で、自らの成長に投資する時間を作り、テーマを決め、学習することが求められます。これは必ずしも勉強という形式だけではありません。最近推奨されている副業というライフスタイルも、収入の側面もありますが、成長やキャリアの育成という観点からの要請が大きいように思います。
 
高度成長期には、終身雇用が前提となっているため、普遍的、一般的な勉強をするよりも、その会社に特化した業務のやり方や経験を積んだ方が有用だった。やり方そのものも、10年、20年のスパンで少しずつ変わっていくものであり、日々の業務の中で少しずつ学んでいけばよかった。また仮に会社を辞めても、同じスキルを持って転職することが前提となっており、転職するために何かを勉強したり、雇用が保証されていないからという理由でリスクヘッジのための資格を取るケースはかなり例外的だったと思います。「親の雑誌」という自分史作成サービスで多くの方のお話を伺っていますが、そうした話はほとんど出てきません。
 
どちらが良いということではなく、ただそのような時代であった、ということです。このことはその世代の方と話すときに理解しておく必要があると思います。
 

成長とは自己否定であり、苦痛である

 
さて、そのように、ここ10年程度で皆が成長をし続けるべき世の中になったわけですが、これは同時に、大部分の人にとって苦痛です。
 
世間一般では、成長することが苦痛だとは言われません。成長することはいいこと、人間、成長を求め続けるべきであること、という前提がまずあります。そのうえで成長することの楽しさや成長することによって得られるものが語られます。
 
今まで考察したように、成長することは必ずしも今までの人類で求められてきたものではありませんでした。
 
生まれてきて、状況の中で求められるものに応え、日々を生きて死んでいく。それが人間の自然な姿だったところ、ここ10年でそれが変わってしまった。それは社会の変化がそのようなものである以上、否定的にとらえても仕方ないことです。成長しない方が望ましいというつもりもありません。成長し続けなければ、現代で幸福をつかむことが難しいのも、成長し続けることで得られる生活や幸福が多くあることは疑いようもない事実です。
 
ただし、それが人類一般に普遍的な要素としてあったと考えるのは誤りだろうと思います。
 
私は、本質的に、人間は成長することで得られる喜びよりも、苦痛の方が大きいのではないか?と考えています。例えば、人間が直立歩行を始めたために手を使えるようになったが、その代償として慢性的な腰痛を手にいれたように、成長することで得られるものの陰に、精神的な苦痛が潜んでいるのではないかと考えます。
 
それは、
成長することが持つ、自己を否定し、今までのやり方を捨てることで味わう苦痛です。
 
人は誰しも、自己を否定することを好みません。変化を嫌い、安定を好むのは、変化は常に自己否定の可能性を伴うからです。今までのやり方を変えることは、うまくいっていたものを失う可能性に直結します。成長することは、根本的に何かを失い、自己を否定することにつながっていると言えるのです。
 
また、成長することは、目標を作り、そこへの到達を目指すことでもあります。それは必然的に競争と、目標達成の可否、さらに周囲との比較を生みます。自分が到達すべき成長ラインに達していないのではないか、周りはもっと成長しているのではないか…焦りと嫉妬、自己否定がここでも生み出されます。
 
これらは、例えば狩猟採集民族が日々の暮らしだけに没頭し、今まで体得したやり方だけで鹿を追っていれば、無縁の感情だったはずです。
 

それでも成長するために

しかし、繰り返しになりますが、私たちはそれでも、現代に生きる以上、成長し続ける生き方を捨てることはできません。非常に難しいと言えるでしょう。もしかしたら、一部の職種では、一度習ったことを継続するだけで一生を終えられるようなものもあるのかもしれません。あるいは半ば自給自足のような生活をすることでそうした生き方を取り戻せるかもしません。が、そうした生き方を選び、維持することには、また異なる苦痛や困難が付きまとうのではないでしょうか。成長しない生き方は、それができる人が目指すのが現実的な解だと思います。
 
であれば、私たちは、成長がそうした苦痛を根源的に持つことを理解したうえで、成長し続ける心構えを持つことが望ましい。そのような心構えには、何が必要でしょうか?
 
自己肯定感である、と私は考えます。
 
成長が常に自己否定を伴うものであるがゆえに、そうした自己否定に負けない心。あるいは、自己否定をする自己そのものを肯定できる心。それが自己肯定感であり、自己肯定感を伴わない成長欲求は、どこかで破綻を生じさせます。燃え尽き症候群や、挫折によってそれまでの意欲が失われてしまうケースがあることは、皆様も具体的に思い出せるのではないでしょうか。
 
自己肯定感の発露を具体的に表現すると、レジリエンスという言葉になるかもしれません。レジリエンスは成長にとって非常に重要な資質であると私も考えてます。その裏側に自己肯定感が最大の要素として存在しているのではないかと考えています。
 
以前のブログで、「変革は自己肯定感から始まる」というテーマで書きましたが、同じことが成長にも言えると思います。
 
 
つまり、現状が駄目だから成長しよう、ではしんどくなってしまうし、どこかで「自分はこれで十分だ、だからこれ以上成長しなくていい」という思いになってしまうし、成長できない自分がさらにしんどくなってしまう。
 
自分の現状は満たされているし、そんな私のありようが正しいから、よりよくなるために成長しよう、と思えるようにしていくこと。
難しいことですが、一番重要なことだと改めて思います。
 
 
 

自己肯定感を育むためには、他者からの肯定が必要

さて、弊社の事業を知っている方であれば、なぜ、こころみのブログで成長について書かれているのか、納得感をお持ちいただけるのではないかと思います。自己肯定感を保ち、育むためには、他者からの肯定が必要だと私たちは考えており、それを事業にしているからです。
 
私たちは「聞き上手」をキーワードに、相対する方の価値を見える形にし、自己肯定感を引き出すことを事業の中核として展開しています。それは自分史作成サービスでも、企業向け支援でも変わりません。企業における変革は、必ずそこで働く従業員の成長を必要とします。その際に上からの力づくでの成長は継続性を持ちえません。私たちの方法論であるディープリスニングを用いることで、企業の変革の前提となる従業員の皆様の成長にたいして、自己肯定感という視点からも、力強い支援ができると確信しています。
 
これからも企業変革、DX、PMI等多岐にわたる支援を、そこで働く方の気持ちを受け止めながら、行っていきたいと考えています。
 
 
株式会社こころみ 代表取締役社長 神山晃男