欧米に寝たきり老人がいないことと、よい死に方を考えること

2013.11.07

前回、日本人の年間死亡者数から、日本人は死ぬ準備をきちんとしていないのではないか、ということを申しました。

netakiri

本日はその続きで、なぜ日本人は死ぬ準備をきちんとできないのか、について考えたいと思います。

少し遠回りになりますが、気になったブログがありましたので共有させていただきます。

「欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか」

 

スウェーデンで得た答えはこちらだそうです。

「高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているから」

なるほど、そうですよね。寝たきりというのは本来の終末期を超えて無理に延命をしている状態であるという共有意識があるということでしょう。

 

この説明を読むと、日本人の私もそうだよなあと思うし、おそらく多くの方も納得されるのではないかと思います。
つまり日本人がこう考えていないから延命治療があり、寝たきりがあるわけではない。むしろ、もっと消極的な理由が背景にあるのではないかと感じます。

私は、背景には宗教と習俗の違いから来る、死の捉え方に違いがあるのではないかと考えました。

1.キリスト教と無宗教
キリスト教の教えは、基本的に「天国」の存在を設定しています。この肉体は離れても、人格としては永遠に存在し続ける前提があります。
従って、不十分な状態で現世に縛り付けることよりも、早くよりよい世界に行った方がよい、と考えているのではないかと思います。
もちろん日本の仏教にも極楽浄土の考え方や輪廻転生の考え方はありますが、実感として死んだらどうなるか、というものに対して明確なイメージを持った人というのはそう多くないのではないかと思います。

2.穢れ
穢れ思想というものは、日本人に特有のものです。特に死を穢れの対象としていることは、キリスト教の原罪の考え方とも違い、特有です。
おそらく死を穢れと捉える考え方は、日本人の衛生観念の発達に相当寄与したと思いますが、一方で普段の生活に死というものが入り込む余地がないと感じます。
葬式や墓地は完全に町の風景から切り離され、そのイベントに参加しない限り、普段死を思うことは難しいでしょう。

3.縁起
「縁起でもない」というものの言い方をして、起こりえる悪いことを考えたがらないという発想が日本人にはあります。穢れ思想に裏打ちされているのだろうと思いますが、悪いことを考えるとそれが実現してしまうかもしれないという考え方です。
安全管理という観点からはこれほど愚かな考え方もなく、むしろ常に最悪の事態を考えることが最悪の事態を避ける最善の手段なのですが、日本ではそうもいかないようです。
よって、家族はもちろん、本人ですらその死について語ることがタブー視されるのが日本の一般的な家庭ではないでしょうか。

こうした一つずつは些細な違いが結果として日本人が死を避ける、考えようとしない姿勢につながっていてヨーロッパとの決定的な差になっているのではないかと感じます。
結果死を漫然と逃れようとするあまり、本人や家族の幸せを度外視した延命治療が一般的になったのではないでしょうか。これは医者の責任ではなく、
家族も本人も正面から死について考えなかった結果だと思います。
前回の死に場所の話もそうですし、認知症の予防などもそうです。

事前に考えることをよしとせず、いざ事態が発生してから場当たり的に対応する。

それでは、結果として誰も幸せな結果を得られないし、社会全体のコストも増大するためこの超高齢社会を支えていくことが難しくなっていくのであろうと思います。
個々人が死を前提に捉え、その間にあるリスクを把握した上で、対応策を事前に準備しておくことが、個人にとっても社会にとっても幸せになる要素ではないでしょうか。
人の考え方ですのですぐに変えるのは難しいでしょうが、日々の活動の中で少しずつ考えるきっかけを作っていければと思います。
こころみのサービスも、リスクを事前に捉え、積極的に生きるお手伝いをしたいと考えています。

 

 

なお、私は寝たきり老人になることが悪いとは考えていません。自分だったら、少しでも長く孫の成長を見届けたいと思うのではないかと思います。
大事なことは、本人が治療方針を選び、家族も合意の上で選択するということだと思います。