高齢者と環世界

2022.10.02

前回、環世界と聞き上手の関連について書きました。今回はもう少し掘り下げて、高齢者と環世界について考えてみたいと思います。
 
最初に他者の環世界って何だという話から、高齢者の環世界を非高齢者(われわれ)がどう見ているのかから考え、その後高齢者の環世界がどうなっているのかを考えてみたいと思います。今回のテーマは、言い方を変えると、世代と環世界ともいえるかもしれません。
 
 

他者の環世界

そもそも、私たちは前提として、それぞれがそれぞれの環世界を持ち生きていると信じています。必ずしも環世界という言葉で定義していないかもしれませんが、人間である以上それぞれの意識世界を持ち、その人だけが感じられる感覚の中で生きていると信じています。この前提は非常に強固であり、みな無意識的に他者の環世界を想像しているとも言えます。
 
他人がそれぞれの環世界を持つと考えるとき、当然そのベースとなるのは自分の環世界です。そしてその、実態を持つ自分の環世界との比較で他人の環世界を想像することになります。つまり前提として、他者の環世界については、以下を想像することとなります。
→自分と同じ部分・・・自分のありありとした感覚を共有できる部分
→自分と違う部分・・・自分には想像できない感覚・共感できない部分
 
さて、では他人のどんな部分が同じで、どんな部分が自分と違うと考えるのでしょうか。端的に言ってしまえば、自分と近しいプロファイルの人の環世界は自分と同じ部分が多いと思い、違う人の環世界は自分と大きく違うように考えるのではないでしょうか?ここで言う「自分と近しい」は極めてあいまいですが、おそらく主観的に自分を構成する重要な要素の順に、ということだと思われます。
例えば民族。使用言語。性別。そんなものが自分と同じであれば、環世界は自分と同じ部分が大きいと感じ、違う部分が大きいと思うと、環世界が大きく異なると感じるのではないでしょうか。例えば自分であれば、日本人男性の持つ環世界は自分と大きくは変わらないと思う一方で、アフリカにすむ黒人女性の環世界は、大きく違うであろうと思う。
 
その環世界の違いが本当に違うのか、あるいは意外と同じなのかは証明できません。分からないけれども、そういう感覚だけは確かにある。
 
さて、一つここで皆さんに問いかけたいのは、自分を構成する重要な要素として年齢が存在し、その違いが大きな環世界の違いを生むと信じているのではないか、ということです。民族や言語や性別と同じくらい、年齢で環世界が異なるという印象を漠然と持っているのではないか。
 
言いかえると、私たちは年齢が大きく異なる方を相手にしたときに、自分と違うという前提を置いているのではないかと思います。
 
自分が20歳だったら、80歳の環世界は大きく異なるのではないかと思う。自分が50歳だったら、20歳の環世界は大きく異なるのではないかと思う。年上から年下を見る際には自分の記憶があるので、特に年下から年上を見る際に、その主観的差異は大きいと思われます。
 

年齢による環世界の違い

では、実際のところ、年齢によって環世界は異なるのでしょうか?異なるのか、という言い方は何と比較をするのかが難しいわけですし、そもそもお互いの環世界を照らし合わせるのは不可能なので妄想の域を出ないわけですが、想像だけでもしてみたいと思います。
 
ある人の環世界が加齢とともに変わることは確実にいえます。まず視力、聴力の低下があります。わかりやすいところでは、若い時にしか聞こえない高音(モスキート音と言います)があったりしますし、視力についても、加齢によって黄色がかって見えるようになるそうです。それから体力は落ちます。同じ力を入れても動く体が違う。何かをしたいときに使う労力が違う。これは環世界に大きな影響を与えるでしょう。また体内環境におけるホルモンバランスの変化は感情を支配します。前頭葉の働き自体も加齢によって変化しますから、ある出来事があったときにどう感じるかや、感情の働き方そのものも差がでるとも言えます。
 
その意味で、人は年を取ることによってその環世界を変えていく、ということは確かなように思います。

違いは大きいのか

 
では、ある人とある人を見たときに、年齢によって環世界が大きく違うのか。
 
これは難しい問題です。そもそも環世界の違いを測る尺度がないからです。私はここで、真実がどうなのかはおいておいて、どう考えた方が得か?で考えたいと思います。つまり、環世界の違いを大きく見た方がよいのか、小さく見た方が良いのか。
 
結論としては、小さく見た方が良いのではないかと考えます。
 
それはなぜかと言うと、日々高齢者の方、それもお気持ちを聞く行為を続けている中で、そもそも人は世代によって環世界が大きく異なるという前提を置いているがために、往々にしてあまり違わないことについても勝手に違いを作っていると感じるからです。
違いに着目をすると違いがあることだけが目立つため、年を取るとものの見え方が変わる、と感じることが多くあります。反対に、同じ環世界であることを意識することはほとんどありません。そこに認識のギャップが生まれていると考えます。
 
自分が18歳だった時のことを思い出してください。その時に35歳になったときを想像してだいぶ大人になるだろうと思っていませんでしたか?
あるいは、中学生の時に大学生の自分を想像する、でも同じです。そして、いざ自分がその立場になったらそうでもない、むしろ若い時から何も変わっていないな、と思うことはないでしょうか。同じことが70歳になっても80歳になっても続くのです。
 
先ほど述べたように、感覚は大きく変わるかもしれません。場合によってはそれによって出現する感情にも変化があるのかもしれません。ただ、それによって生じるものの見方や考え方、好きなものや正義のあり様が大きく変化するわけでもないということは言えるのだと思います。
 
これを他人に対しても考えると、結局年齢によって差が生まれることはほとんどない。一方で、私たちは自然と、年齢によって考え方が異なるという前提を置いてしまっている。結果として、必要以上に壁を作ってしまうのではないか。そう考えています。
 
もちろん認知症や、大きな病気や怪我などで感覚器/脳への影響が甚大であれば話は別です。その際は、きちんと違いがあることを認識した上で、異なる環世界に相手がいることに想像力を働かせることが重要であると考えます。
 

商品開発/サービス提供の現場で

例えば、高齢者に対してサービスを提供するときや、商品を開発するとき。違いを前提に考えてしまうために、高齢者の気持ちを一切無視してしまい、結果として受け入れられない、というケースを多く見てきました。
 
例えば、過度な気遣い。よくあるのは、「お年寄り扱いされたくない」という心理を無視したサービスです。非高齢者がお年寄り扱いをされたくないのと同じくらい、高齢者になってもお年寄り扱いされたくない。ところが人は、40歳に対して「今日は暑いからエアコン付けましょうね」とは言いませんが、80歳に対して言うのは優しさだと考えている。ここに大きなギャップがあります。
 
自分たちと同じ、と思えるかが重要です。違う言い方をすれば、自分と違う存在として高齢者をとらえがちな自分を、常に軌道修正する。その上に高齢者特有の条件への対応がきちんとなされること、この組み合わせが必要ではないか。もちろん、例えば老眼が進めば大きい字が見やすいのは事実としてあるので、そうした配慮をすることは重要です。重要なのは、心理的な働きについては環世界が同じであるという前提に立った方が良いということです。
 
つまり同じ状況におかれたら同じ気持になる、ということ。そのうえで、その人がいまどういう状況に置かれていて、どんな気持ちにあるのか。それを共感的に伺うことが重要ではないでしょうか?
 

高齢者以外では・・・?

ここまで高齢者についての考えを模索してきましたが、では高齢者以外の、自分と異なる立場の人はどうでしょうか。男女、民族、言語の違い・・・環世界が異なると考えた方がよいのか、同じと考えた方が良いのか?
 
これはもしかすると、自分と世界とのつながり方を考える上での重要な軸になるのかもしれません。つまり自分と他人の環世界の、違いに着目して生きるのか、共通点に着目して生きるのか。
 
そんなことを考えることも楽しいことかもしれません。
 
 
 
株式会社こころみ 代表取締役社長 神山晃男
神山晃男