人は書くより話す方が得意

2021.06.27

自分史でも、ビジネスの現場でも、人は書くよりも話す方が得意だと痛感する。

改めて、どの程度、また何が違うものなのか、考えてみたい。

 

どのくらい違うものなのか

まず、同じテーマで書くのと話すので、どれくらい差があるのか。弊社のスタッフに同じお題を与えて試してみた。

「印象的だった旅行」について、3分間で書いて/話してください

まず、印象的だった旅行について3分間で書いてもらったものが以下だ。

 

 

 

 

3分間で書ける量としてはこの程度ではないだろうか。むしろ十分に書けている方だろう。まあこんなものだろうな、という気がする。

 

次に、同じ3分間で話してもらった内容だ。話したものを書き起こしている。

まず分量が全然違うことに気づく。同じ時間を使っても、書く行為は書くことに頭を使うため、伝えられる情報の量が単純に少なくなる。

次に、話の内容だ。赤で協調しているところに特に注目してほしい。「小説の世界にいるような気分」「日本に帰ってきてから小説を読んだときの見え方が変わった」「ホームズって本当にいたのかも」、「ポアロ、いるかも」「自分がその世界に行けた、という気持ちになる」「私が物語の中に全部包まれる感じになる」。

本人の気持ち、情感に関わる表現が多く出ており、結果として非常に臨場感のある文章になっている。端的に言って、こちらの文章を読む方が面白い。

情報の量もあるが、質が圧倒的に良くなっていることが実感できる。単なる事実の羅列ではなく、伝えたいメッセージが表現されていることが初めて理解できる。

 

実はこれは、自分史作成サービスを提供している中で非常によく感じることだ。世の中には自費出版サービスがあり、自ら書いた文章を出版できる。自分史といえばこちらが主流だ。
職業柄そうしたものに目を通させていただくことが多いのだが、もちろん例外は多くあるものの、ともすると事実の羅列であったり、感情表現が通り一遍のものになってしまっていることがままある。そうしたものを見るたびにもったいない気持ちになってしまう。

サービスを提供している中では、自分ですでに文章を作っている方にお話を聞くこともある。そうすると、単なる1行から、多くの細かいエピソードやそれに付随するお話が出てきて、大変豊かな内容になっていく。書くと話すとでは大違い、ということだ。

 

上手な文章ばかり読んでいる

この背景には、私たちが、普段「上手に書かれた文章ばかり読んでいる」ことがあると考えている。つまり一般に出回っている文章は、基本的にプロが書いているものがほとんどだ。ブログなどでも、私たちが普段目にするものの大多数は人気があるもので、それらは書き手がプロであるか否かに関わらず、文章力がある。だから人気が出ている。
例外的なものはtwitterなどの短文メディアだが、あれもいわゆるバズっているものは、短い中で非常に練りこまれている。別の観点から上手に作られた文章だと言えよう。

普段そうしたものに接しているがゆえに、人は自然と、「自分の気持ちを文章にきちんと書くことが可能である」という思い込みを持ってしまっているのではないだろうか。

もちろん、そうしたプロがいる以上、それが可能なのは事実だ。話すよりも書く方が得意という人もいるだろう。ただし、それは多数派ではない。
経験上、ほとんどの人は書くのが得意ではない。得意と思っていても得意ではないことの方が多い。

最近になってポッドキャストやVoicy、stand.fmといった話し言葉を配信するサービスが広がっているのも、提供者側にとってのコンテンツ作成の効率性が大きく影響を与えているのではないだろうか。

 

なぜ話す方が得意なのか

では、なぜ人は話す方が得意なのか。それは、
人はずっと話をしてきたからだ。

ホモ・サピエンス、あるいはその前の人類の祖先がいつから言語を使い始めたかは、よくわかっていないが、少なくとも20万年以上の歴史はありそうだ。
そして発話によるコミュニケーションは、一部の障がいを持つ人を除けば、ほぼ100%の人類がずっとそれを使ってきた。

翻って、文字の発明は2千から3千年前といったところであり、その後も大多数の人々にとっては無縁のものだった。

識字率が50%を超えたのがせいぜいここ100年くらいのことだと考えれば、いかになじみが薄いものだったのか、よくわかる。

ソクラテスとプラトン

例えば、古代ギリシャ。有産階級の間で、話すと書くの過渡期にいたのが、ソクラテスとプラトンだ。

ソクラテスは自ら文章を残さず、すべて直接の対話で自らの考えを残した。
弟子であるプラトンがソクラテスの言葉を残したため、現代のわれわれもソクラテスの考えを知ることができる。

そんな彼はこういう言い方をしている。

そもそもそれは、ほかの学問のようには、言葉[書き言葉?]で語りえないものであって、むしろ、[教える者と学ぶ者とが]生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、[学ぶ者の]魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです。(『哲学と人類 ソクラテスからカント、21世紀の思想家まで (文春e-book)』(岡本 裕一朗 著)より

文字には、自分の考えたものそのものを書ききることはできない、という認識をしているのだ。

書き言葉に限界があり、難易度の問題ではなく、仕組みとして限界があると考えていた、という点は非常に興味深い。

とはいえ、そんなソクラテスの言葉をプラトンが残してくれたから我々が彼の考えを知ることができるというのも、複雑な状況ではある。

 

どう折り合いをつけるか

では、話し言葉の方が人は自分の気持ちや付随する様々な考えを残せる、つまり質が高いことを残せるとして、書くという行為とどう折り合いをつければよいのだろうか。

ソクラテスがそうだったように、まったく書くという行為から離れてしまえば、人に何かを残すということはできない。
キリストの言葉も、正確性を今から判断することはできないだろうが、聖書というものができたから、現代まで受け継がれ、多くの信者を獲得しているといえる。

ひとつ、ここで「風姿花伝」がヒントになると考えている。

世阿弥が書いた「風姿花伝」は、能楽の聖典として書かれたものだが、当然、素人の自分が読んでもさっぱりわからない。ところが、聞くところによれば、この本はそもそも誰が読んでも理解できないらしい。読んで理解するための本ではないという。読んで、さらに先達がその内容を身をもって教えることで初めて理解される前提で書かれているとのこと。逆に身をもって教えるだけでは、能楽の神髄は理解できないということでもある。

つまり、書かれたものだけで、芸事の神髄は伝えることができない前提にたったうえで、それでも話し言葉だけで伝えたいことを後世まで残していくことは難しいと判断したのだろう。
書かれたものだけで後世に伝えたいことを正確に伝えることはできない。話し言葉だけでも、後世に何かを伝えていくことはできない。

私たちも同様の視点に立つべきではないかと思う。そして、話し言葉と書き言葉を同時に使って、人に伝えていくのだ。具体的には2つの視点で話すことと書くことを「協力」させる。
① 話し言葉の方が表現として容易であるがゆえに、話し言葉をベースとして、書き言葉に落とす
② 書かれたものだけですべての内容を伝えることは不可能であるがゆえに、書かれたものをベースに、会話を介した伝達を行う

 

 

 

これこそ、私たちが自分史作成サービスで行いたいことであり、ビジネス向けの支援で行いことでもある。